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朝起きても腹の調子は直っていない。今日は、終日トルファンで観光である。走行日ではなく、助かった。海外をバイクで走っていて、最も避けたいものは夜間走行である。これまで何回も書いてきたが、夜間走行は怪我をした場合の医療体制を含めて本当に危ない。雨はまだいい。ある程度覚悟をしているからである。装備さえしっかりしておれば、後は我慢の問題である。

夜間走行の次に嫌なものは腹を下したときである。これは辛い。集団で走っているので、一人だけちょっと失礼というわけにはいかない。どんなに景色のいいところを走っていても、考えることは早くホテルのトイレに駆け込みたいと、そのことばかりである。走っている時間は苦痛以外の何物もない。そんなわけで、今日は走行日でなくて幸いであった。あまりにひどければホテルで寝ているが、何とかなるだろうと外に出ることにした。

ここは交河故城と呼ばれる都市遺跡である。トルファンの西、約10kmの位置にある。前漢時代は車師前国と呼ばれていた国の王城である。仏教への信仰が盛んであった。唐の支配下では中央アジアの前進基地として都護府が置かれ、兵士が駐屯していた。

遺跡は川に挟まれた、長さ1760m幅300mの台状の土地である。川が30mくらい大地を侵食し、切り立った崖が残り天然の要塞となった。後、ユネスコの世界遺産にも登録された。写真の看板は遺跡を真上から見た図である。図の右、南から坂を上って遺跡に入っていく。腹を下しながら坂を上るのは辛い。一歩一歩不安を抱えつつ遺跡に入っていく。

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坂を上りきると、今度は逆に見下ろすように細長い台地の真ん中に広い通りがあり、周囲は整然と区画されて建物の土台や壁が残っている。ポンペイの遺跡を思わせるような光景である。

気候が湿潤な我々日本人には思いもつかないことであるが、都市は地表を掘り下げたところを道とし、残したところを建物の下部の壁とし、その上に日干し煉瓦を積み上げて構築物を立ち上げている。

写真の右の壁には地層が見える。そこにレンガを化粧材として使っているように見える。地下に潜った方が高熱の日射を避けられるということと、地表が適度な硬さの砂岩でできており、何より雨が降らないからこのような掘り下げた空間を住居とすることができたらしい。「減地法」という工法らしい。


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ここは夜来たら不気味なところであろう。この国は14世紀にモンゴル軍によって滅ぼされたという。


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台地の端はいきなり切り立った崖になっている。はるか下を川が流れている。崖から下を覗きこんでいると、少し離れた後ろの方からからじっとこちらを見ている者がいる。旅行会社の人が監視人だと教えてくれた。彼らは遺跡の保護を目的としているのではなく、観光客が崖から落ちないように見張っているのだそうだ。確かに柵などないからあまり身を乗り出すと危ない。おそらく何人か落ちたことがあるのだろう。

腹の調子が不安なので、いよいよとなったら人が来ないような崖の近くの遺跡の陰でと、一人皆から別れて適当な場所を探してうろつき回っていた。すると、先ほどの監視人がさりげなく位置を変え、遠くからでもこちらを見通せる場所にしゃがみ込んでいる。少し、位置を変えてみる。すると向こうは立ち上がる。偶然ではない。どうもマークされているようだ。急に不安な気持ちになる。頼むから放っておいてくれ。しかし考えてみれば、一人だけ崖の近くで何の変哲もない場所をうろつき、壁の陰に隠れような動きをしていれば、そちらの方が監視人の目を引くのではないか。監視の目を逃れようとすればするほど、疑惑を招くことに気が付いた。

なんとか我慢しているが、昼近くなると気温がぐんぐん上がってくる。戸外に長時間いるのは辛かった。どのような遺跡があったのかはほとんど覚えていない。しかし、腹を下し脂汗を流しながら監視人の目を逃れようと、コソコソと遺跡を彷徨ったことは今でも覚えている。




by chukocb400sb | 2018-12-22 04:50 | 2 敦煌からウルムチ | Comments(0)

この旅行記は、シルクロードを西安からベネツィアまでレンタル・オートバイのパックツアーを乗り継ぎ、17年かけて走ってきた記録である。


by 山田 英司