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6-36 ポレ・ドクタール    9/20

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今日はタブリーズまでの最終走行日である。サンジャーンとタブリーズの中間にあるミーアーネという町の手前の山の中にある狭い谷にかかるこの壊れた橋のたもとで小休止となった。この橋は17世紀に造られた橋である。

ポレ・ドクタール(乙女の橋)と呼ばれているが、ご覧の通り無残にも真ん中が崩落している。もし完全な姿で残っていれば名前の通り美しい橋であったに違いない。この崩落は爆破によるものである。それは第2次世界大戦で、少数民族が大国に翻弄され結果の出来事であった。

今、イランの北にカスピ海に面してバクー油田を抱えるアゼルバイジャン共和国という国があるが、これはかつて旧ソ連の支配下にあった国である。アゼルバイジャン共和国とイランの間にはアラス河という川が流れているが、その南のイラン側にはにはトルコ系のアゼルバイジャン人が居住していた。

当時アゼルバイジャン人はイランの総人口の1/4を占めるほどの大きな勢力を持っていた。この地域はトルコからロシアに抜ける交通の要衝で、早くから開発されていたバクー油田があったため近代的な文物や思想が早くから広がり、イランでも先進的な地域であった。

第2次世界大戦の時、イランは中立を宣言していたが英ソの影響をけん制するためドイツに接近していた。第2次大戦で独ソ戦が始まると、ソ連はイランルートの支援を確保するため、英は石油利権を確保するため、イランに侵攻しイランのレザー・シャーを退位させてしまう。

レザー・シャーが退位するとそれまで抑えられていたいろいろな政治勢力が台頭するようになった。その一つがソ連と国境を接していたこの地域のアゼルバイジャン人である。ソ連はイラン占領中、この地域に対して様々な懐柔を行い影響力を拡大していた。病院や学校を建設しインフラを整え、文化的な交流を深めていた。

スターリングラードの攻防戦が終了すると、戦後処理を巡って連合国の対立が顕在化する。今まで入ってこなかった米が石油利権を獲得するために密かにイランと交渉を始める。英はこれをけん制する。ソ連も新たに石油利権を獲得しようと交渉を始める。

連合国の勝利が決定的になると、イランからの連合国の撤退が問題になる。連合国は終戦後6か月以内に撤退するとイラン英ソ3国の間で協定が結ばれていたのである。ソ連は撤退後もこの地域を押えるためにタブリーズで結成されたアゼルバイジャン民主党を支援するようになる。民主党は当初、アゼルバイジャン人の地位向上が目的であったが、次第に独立運動に傾いていく。これもソ連の働きかけである。

そして第二次世界大戦が終わった1945年11月、民主党系の民兵集団がソ連軍の支援を受けて武装蜂起しイランの軍隊と衝突を起こす。さらに同じ月、アゼルバイジャンの人民大会が開催されアゼルバイジャン国民政府の樹立が宣言された。そしてアゼルバイジャンにのみ適用される憲法を発布し徴兵制による人民軍が編成される。当然イラン政府はこれを潰すため政府軍を差し向けるがソ連軍によって阻止されてしまう。

連合軍撤退の期限は迫るがソ連軍は居座る気配である。とうとうイラン政府はソ連の内政干渉について国連安全保障理事会に提訴を行う。しかし、連合国撤退の期限が来ても米英は撤退を完了したのに対しソ連は逆に軍隊を増強し始めた。それを見た米はこれまでの対ソ協調路線を転換させて対ソ強硬路線となる。これが米ソ冷戦の始まりとなった。

一方でソ連はイランと石油利権の交渉を進めていた。そして撤退期限の翌月、両国の合弁石油会社協定を合意した。条件はソ連がアゼルバイジャンから手を引くことと引き換えに、イランは国連への提訴を取り下げることであった。合意後、ソ連は軍をイランから撤退させてしまうのであった。

哀れなのはアゼルバイジャン国民政府である。ソ連の後ろ盾が亡くなって財政的にも軍事的にも立ち行かず、住民の支持も得られなくなってしまった。国民政府はアゼリー語の公用化などの政策を掲げたが、一般住民はそんなことはどうでもよく税金が安くなって生活が安定していればよかったのである。イラン政府は国民政府を潰すべくその拠点タブリーズに向かって軍隊を侵攻させた。

この時イラン政府軍の侵攻を止めるため、退却する国民政府軍によってこの狭い谷にかかるこの橋が爆破されたのである。しかし、一つの橋を爆破しただけで大勢が変わるわけがない。国民政府はあっけなく崩壊し、その後何千ものアゼルバイジャン人がイラン南部に強制移住させられた。一方、その翌年イラン国民総会でソ連が結んだ石油合弁会社の条約は否決され、ソ連の目論見も水泡に帰したのである。

この橋は崩落した際まで歩いて行くことができる。柵も何もなく足元を覗くと濁った水の川の流れがあり、その先にはこちらと対になった橋げたのレンガの構造物がむき出しとなった断面が見える。誰も何も得るところはなく、ただ美しい橋が壊されただけである。残されたのは橋げたと橋げたの間のこの空間だけであった







by chukocb400sb | 2022-06-10 06:36 | 6 マシュハドからタブリーズ | Comments(0)

この旅行記は、シルクロードを西安からベネツィアまでレンタル・オートバイのパックツアーを乗り継ぎ、17年かけて走ってきた記録である。


by 山田 英司