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7-07 クルドの人々      9/20

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ところでイサク・パシャはクルド人であった。17世紀、オスマントルコとペルシアがこの地方をめぐって争奪戦繰り広げて戦いになった時、オスマントルコの側で大活躍した。その功でこの地方の知事に任命されたのである。

現在クルド人の人口は2500万人から3000万人もいる。中東ではアラブ、トルコ、ペルシアに次ぐ4番目に人口の多い民族である。クルド人が住む地域はクルディスタンと呼ばれ、トルコ、イラン、イラク、シリアの4か国にまたがりその面積は50万㎢もある。人口の数字に幅があるのは正確な統計がないからである。各国の政府が発表する数字はもっと少ない。これははクルド族の問題を小さく見せるためと言われている。

2500万人という数字は国でいうとオーストラリアぐらいの規模である。また50万㎢という数字はフランスと同じくらいの広さである。クルド族というと荒涼とした山岳地帯に住んでいるかのような印象があったが、クルディスタンと呼ばれる地域は天然資源が豊富で、イランやイラクでは内陸の油田地帯を抱えている。トルコではクロムやマンガンなどの鉱物資源、そして何より山岳部であるため豊富な水資源を抱えている。

各国の水資源の60~70%がクルディスタンの山岳地帯に源を持っている。そのため意外と農業が盛んでトルコの穀物生産の15%がこの地域で収穫されている。要するにこの地域は2500万~3000万人の人口を養うことができる中東では数少ない食料の自給が可能な地域ということである。

クルド人はインドヨーロッパ系の民族で、紀元8世紀ごろからこの地域に王国を作り始めていたらしい。しかし、周囲を大国に囲まれた民族はどこの地域でもひどい目に会っている。この地域はペルシア、アレクサンダー大王、アラブ・イスラム勢力、トルコ、モンゴル帝国、チムール帝国、と様々な大国によって勢力地図が塗り替えられ、クルド族も辛酸をなめてきた。

特に16世紀以降はトルコとペルシアの間に挟まれ、西側のクルドはトルコの支配下に、東のクルドはペルシアの支配下に組み込まれ双方が戦わされることも多々あった。クルド族は元々部族単位の社会を形成しているため独立心が強く、まとまって国を作るほどの求心力もないためそれぞれの大国の中で自治権を要求してきた。

トルコ内のクルド族は自治権を認めてもらう代わりに基本的にはオスマン帝国の属州か属国という立場でペルシアの防波堤となりトルコの国境線を守る役割を担ってきた。こうしたクルドの属州あるいは属国はトルコ国内に16から17存在した。冒頭のイサク・パシャの領土もその一つらしい。トルコのクルド族はこの均衡の中で300年間比較的安定した時代を過ごしてきた。

しかしオスマン帝国はしだいに国の財政が悪化し、軍事力を中心とした中央集権的な体制を強化するようになってきた。その結果、クルドの地域に対して徴税や徴兵など懐に手を入れるようなことに手を付け始めた。これがクルドの反発を招き反乱を多発させる。

19世紀になるとロシアやヨーロッパ列強がトルコに介入を始めクルド人も列強に利用されるようになる。クルド人はトルコやイランでは一定の勢力を持ち、独立心が強く戦闘能力に優れていたため列強にとっては独立を餌に扇動しやすかったのである。

オスマン帝国が倒れた後トルコではケマルアタチュルクが祖国解放運動を起こし、「トルコ人とクルド人の国家を作る」としてクルド族と同盟し列強とたたかった。しかし、ケマルアタチュルクが政権を握るとあっさり同盟は反故にされ、クルド人の自治権は奪われてしまった。こうしたことは第二次大戦後、メジャーの石油会社をイラクが国有化した時アメリカのCIAの援助でイラク国内のクルド族が動かされていたことまで続いている。

トルコ国内のクルド族の独立意識は強く、今我々が今いる地域はそのクルド族が多く居住する地域である。1990年台までクルド族の武装勢力により政府関係者の車両がよく襲われていたそうである。そんなわけで最近また政治的な緊張が高くなってきたということで、宿泊場所を変えたという次第である。宿泊場所を変えた理由を理解するためには紀元8世紀まで遡らなければならなかった。

イサクパシャ宮殿の地下の倉庫らしきところを見学していると、一団の青年たちと一緒になった。広い地下空間で他に誰もいなかったうえ、東洋人が珍しかったのだろう、ちらちらとこちらをうかがっていたがやがて我慢ができなくなって話しかけてきた。言葉は分からないがだいたい聞かれることは見当がつく。

ヤパンだと答えると急に興奮したように自分たちを指さして「カディッシュ、カディッシュ。」という。どうもクルド人と言っているらしい。ドゥバヤジットに住んでいると言っているので地元のお兄さんたちらしい。次々と自分お名前は何々、あいつの名前は誰それと名乗るがよく聞き取れない。一緒に写真を撮ってくれとせがまれた。彼らのスマホと自分のカメラで交互に撮った写真がこれだ。皆背が高く精悍な感じがするが、この時はただの若い衆だった。

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by chukocb400sb | 2022-09-16 07:07 | 6 マシュハドからタブリーズ | Comments(0)

この旅行記は、シルクロードを西安からベネツィアまでレンタル・オートバイのパックツアーを乗り継ぎ、17年かけて走ってきた記録である。


by 山田 英司