人気ブログランキング | 話題のタグを見る

7-21 二層ゾーンモデル    9/23

7-21 二層ゾーンモデル    9/23_f0388849_20582870.jpg

ギョレメ野外博物館はキリスト教の教会洞窟が博物館となっている。ここも台地の中の侵食された谷に、掘り下げられた迷路のような地下空間が崖に現れ、教会だけでなく厨房や食堂の跡を見ることができる。いくつかの洞窟には見学で立ち入ることができる。洞窟の中にはフレスコ画の宗教画が残っているものもある。ここには多数の人が居住していたとのことであった。ところで何でトルコの真ん中にキリスト教の教会があるのか。何でこんな地下空間を作ったのか。アリの巣のような地下空間に人間が多数住むことができるのか。

7-21 二層ゾーンモデル    9/23_f0388849_20590539.jpg

カッパドキア地方は北と南を山地に挟まれ標高1500mくらいの高原地帯である。土質は火山灰の堆積した安山岩や凝灰岩からなり、土壌養分は少ない。したがって植生は少なく砂塵が発せしやすい。夏は40度と高温になり冬は氷点下の厳しい気候である。地下空間は温度が一定で砂塵の影響も受けないので、この地方では昔から柔らかい地下を彫り込んで食糧倉庫や住居を作っていたとのことである。

ローマ時代、この地方にキリスト教が広がったがイスラムが支配する時代、迫害を逃れるため地下に隠れるように居住区や教会を作り続けた。元々は平らな大地に穴を掘り、地下に空間を伸ばしアリの巣のような地下都市を形成したが、雨水の侵食で谷が形成され崖の途中や三角錐の山の中腹に居住区の穴が現れるようになってしまった。20世紀になってトルコ・ギリシア戦争の結果、ここに住んでいたキリスト教徒は強制的にギリシアに追いやられ、地下空間だけが後に取り残されたということである。

7-21 二層ゾーンモデル    9/23_f0388849_20592470.jpg

歴史はそのようなものであったらしいが、鉱山の穴の中のような空間に人間が長期間生活できたのだろうか。この疑問を調べた人がいた。名古屋大学工学部の防災安全工学の先生である。先生はカッパドキアまで飛んで、つてをたどって地下都市に潜り込ませてもらった。ギョレメ野外博物館の公開されている地下空間には岩を削ってできたテーブルとイス、かまどの跡もある。人間がこのような空間で生活するためには、空気、水、照明、排水が必要である。

水は地下80mほどのところに地下の水脈があったということである。だいたい火山灰の堆積の厚さと一致する。照明は岩棚に焦げた跡があるのでロウソクか何かで光を得ていたらしい。排水は分からない。おそらく一時的にためて外にくみ出す以外方法がないだろうということであった。問題は空気である。地下で火を使えばたちまち酸欠になるのではないか。

先生は地下空間を測定し、3次元の空間モデルを作成した。そして地下空間には必ず垂直な縦穴が最深部まで貫通しておりこれがおそらく空気口であろうと推測し、縦穴や地下空間の空気の流れを測定した。そして日本に帰って二層ゾーンモデルという多層階多層室を対象とする煙流動性状予測シミュレーションプログラムなるものを使って空気の流れを計算した。このモデルは防災工学の分野で火事の際、火炎の熱で煙がビル内の上層階や各部屋にどのように広がっていくかを試算するためのプログラムである。

その結果、地下のロウソクの炎や人間の体温程度の熱でも、軽くなった空気にわずかだが上昇気流が発生し、それに引き込まれて縦穴から外気が下流し地下の最深部に空気が供給されるという結果が得られた。そしてこの計算結果と現地で計測してきた値はだいたい一致したということである。これで地下空間に多数の人間が居住できたという理論的な裏付けが得られたということである。

それにしても、先生は何のためにカッパドキアまで飛んでこのような調査研究をしたのか。目的は将来人間が地下空間に恒常的に住むようになった場合どのような影響が出てくるのか知見を得るためとしている。もし将来迫害されて地下深く隠れる時は、その時縦穴を忘れないようにしよう。野外博物館の売店で10リラのオレンジジュースを買って飲んだ。搾りたての本物のジュースである。美味かった。

博物館から出発するとき、ケマルの後に我々3台が続いて駐車場の前の道路を左に出たが4台目が出遅れ反対の右方向に行ってしまった。4台目はサポートカーのバンの指示で右に曲がったのだが、実はこちらの方が正しい方向であった。しばらく走ってようやくケマルの先行グループは後続がいないのに気がついた。さあ、こうなると出会うのは大変だ。ここで待っていろとケマルがもと来た道を引き返し後続部隊を探して走り去っていった。例によって田舎の何もないところで待つしかない。

どのくらい待っただろうか、ケマルがサポートカーと後続部隊をTるれて戻ってきた。やれやれこれで帰ることが出来る、と思いきやこれから別の観光場所でバイク走行の撮影会をするという。やはり我々がバイクで移動させられたのはこのためであった。もうだいぶ日が傾いてきている。遠景に奇岩が見える田舎道で1台ずつ走らされ添乗員が写真をとる。この光量で望遠レンズでいい写真が撮れるのか。

そんなことをしていたら暗くなってしまった。カッパドキア一帯は幹線道路から外れると街灯はない。暗くなるとカーブが良く見えずスピードが落ちて同室のメンバーと2人、皆に置いて行かれてしまった。この状況はかなり心細いが幸い田舎なので他に道はなく、2人で時々来る車の後を追いかけながら先へ進んだ。幹線道路の街灯が見えるとその交差点に皆が待っていてくれた。

このような時、もし皆と再開できなかった時はどうするか。空が明るい街の明かりの方に向かって走る。タクシーが走っていれば金を渡してホテルまで走ってもらい後をつけていく。いなければ開いている店に入ってホテルの名前を言って道を教えてもらう。店が開いてなければどこかのホテルのフロントに駆け込んで道を教えてもらう。地下空間のような夜の道を走りながらいろいろ考えたものである。









by chukocb400sb | 2022-12-23 07:21 | 7 タブリーズからイスタンブル | Comments(0)

この旅行記は、シルクロードを西安からベネツィアまでレンタル・オートバイのパックツアーを乗り継ぎ、17年かけて走ってきた記録である。


by 山田 英司