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7-00 タブリーズからイスタンブル 序 2015/9

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アナトリアの大地は、地中海と黒海から運ばれてくる水蒸気により、時として湿潤な風が吹く。これまでの中央アジアと違い、バイク乗りとしては気持ちくすぶる怪しい雲行きの日もある。しかしどんな雲にもその裏側には太陽がある。向かう先の雲の切れ目から地上を照らす日の光の中に、緩やかな起伏の大地には緑が広がり、美しい田園風景が続けば気持ちも軽くなろうというものだ。

街道沿いの村の建物もどこかしらヨーロッパの風景に近く、かといって村の真ん中に高い尖塔がたちスピーカーからアザーンの声も流れる。古代において、アナトリアの西側はギリシアの文明圏であったし、東はメソポタミヤの文明圏に接していた。そして東西の接点であるイスタンブルほど文明の振れ幅の大きな都市は他にない。

西暦330年5月11日、ローマ皇帝コンスタンティヌス大帝がキリスト教を国教とする専制支配を固めるためにこの地に遷都を行いコンスタンティノープルと命名した。それ以降この都市はキリスト教を信仰しギリシア・ローマ文明を継承した東ローマ帝国の首都であった。イスタンブルという都市名もコンスタンティノポリスがトルコ語となってなまったものだという。

1123年後この歴史的な都市をメフメット二世率いるオスマントルコが滅ぼしたのである。メフメット二世はコンスタンティノープルを防衛するために築かれたテオドシウスの大城壁のロマヌス門の正面に巨大な青銅の大砲を据え大城壁を砲撃した。トルコ軍最後の総突撃の日、東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティヌス11世も自らマントを脱ぎこのロマヌス門で敵軍の中に切り込み行方不明となっている。そしてこの日、大城壁のロマヌス門が突破されオスマントルコ軍が城内になだれ込んだ。1453年5月29日のことである。

「コンスタンティノープルの陥落」という塩野七生の歴史小説にその最後の様子が詳細に描写されている。塩野はこの都市は誕生の日と終焉の日が極めて明確で歴史上類を見ないものであり、この都市の陥落は一つの国家の終焉ではなく一つの文明の終焉であったと指摘している。写真を見ると今でも上部が砲弾で吹き飛ばされたままの姿で城壁が残っているようである。おそらくその場所は、文明の終焉の瞬間で時が止まっているにちがいない。何としてでもその場所に立って自分の手で城壁を触り、1453年を確かめに行かなければならない。

一方、私個人にも力の衰退が忍び寄っていた。イランから帰ってきて自分に起きた最大の変化は、家庭内の地位の低下である。イラン・バイクツアーの1週間前にお袋が亡くなり、葬儀を済ませて焼き場から遺骨を持ち帰って4日後に成田から一人遊びに飛び立ったことが些細な原因である。納骨は埋葬許可証をもらってから手続きするので時間がかかる。帰ってからでいいやと旅行中遺骨は自宅に安置、多数説の見解では放置である。

山の中腹にある眺望と日当たりの良い、すぐ上を走る東京電力の高圧送電線から電磁波が日光とともに降り注ぐ民間の霊園に、縁もゆかりもないお坊さんにお経をあげてもらいお骨を収めたのは旅行から帰ってしばらくしてからであった。物事に優先順位をつけて、やることをやったつもりであるが優先順位に対する価値観の相違というものがあったらしい。

社会的通念を軽視した行為、家庭内における共同生活を形成することについての責任感の欠如、こそこそと生計費を私的享楽に流用し続ける非違行為に改悛の態度が確認できないこと、等々の事由で弁明の機会も与えられず通知を受けることなく懲戒処分を受け家庭内の地位は降格となっていた。

どのような地位に降格されたのかを具体的に指摘してくれたのは、単身赴任先で時々行っていたスナックのママからであった。「単身赴任で時々しか家に帰らないんだけどね、家に帰って横になっていると犬が寄ってきて俺のお腹の上で寝ているんだよね。なんだかんだ言って懐いているんだね。」「あっはっはっはー。山田さんね、それは懐いているんじゃないのよ。犬があなたのこと目下だと思っているのよ。」






by chukocb400sb | 2023-12-31 23:20 | 7 タブリーズからイスタンブル | Comments(0)

この旅行記は、シルクロードを西安からベネツィアまでレンタル・オートバイのパックツアーを乗り継ぎ、17年かけて走ってきた記録である。


by 山田 英司