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3-38 ニヤの遺跡       8/24

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沙漠公路は西域南道である国道315号に突き当たって終わる。上の標識は二又となっているが、分岐のすぐ先に両方の道をつないで横に走る国道315号がある。左に行くと且末(チャルチャン)に至りその先は遥か敦煌に通じる。ただし、昔の沙漠の古道は失われ、現在は山の中を抜ける道路しか地図にない。右に折れ西に向かうと民丰(ニヤ)の町に着く。

ここで国道315号は90度南に向きを変えホータンにいたるが、今日はニヤで泊まりである。ニヤは人口3万の小さな町である。町というより、村に近い規模の集落である。この町でまともなホテルは3軒しかないそうだ。泊まることになったホテルの隣の中華で昼食となる。

現在は小さな町であるが、ニヤはその昔「精絶国」とよばれ3世紀から4世紀にかけて西域南道を東西800kmに渡り支配していた仏教の盛んなオアシス国家であった。ただし、当時の中心地はここから北に120km離れた場所にあった。そこは現在沙漠の中にありニヤ遺跡として知られている。

ここは立ち入るのは大変困難な場所で、20世紀になって海外の探検家が入るまで打ち捨てられた場所であった。1980年NHKのシルクロード取材班が外国人としては数十年ぶりにニヤ遺跡に到達している。ラクダ58頭の半数に水を運ばせて沙漠に立ち入ったが、道を見失い夜を徹して遺跡を探した緊迫した様子をこれはすごいと思いながら放映を見ていた記憶がある。下はNHK取材班がニヤの遺跡に到達した瞬間の忘れられない映像である。

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この遺跡は20世紀に入りここでカロシティー文字が発見されたことで有名になった。カロシティー文字とはインド北西部のガンダーラ地方で使われていた文字である。それまで楼蘭王国も含めてこの地方の人々は中国の影響下にあったが、文字を持たなかったのである。

この地域にカロシティー文字が伝わったことにより現地で話されていた言葉が文字として残るようになった。この文字が記された木簡が遺跡から大量に発掘され、それまで分からなかったこの地方の人々の当時の社会や交易の様子が分かるようになったのだ。

ガンダーラ地方の貨幣には表裏にカロシティー文字とギリシア語が記されている。ニヤ遺跡から見つかった木片の商用文書にはカロシティー文字と中国語が記されている。ここは東西文明の交わる場所であり、カロシティー文字は東西の文明の仲介の役割を担ってきた。

大きな勢力を持っていた国であったが、5世紀に入ると人々はニヤを去っていった。都市は捨てられ廃墟となった。川筋の変化、他の民族の侵入などの説があるが原因ははっきりしないらしい。いずれにしても、風と砂に抱き取られるようにして歴史の中から忽然と姿を消してしまったのである。あたかもそれは砂の中に沈んでいったあの「瀚海(ハンカイ)」の伝説と重なるのではないか。

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by chukocb400sb | 2019-12-06 07:16 | 3 ウルムチからカシュガル | Comments(0)

この旅行記は、シルクロードを西安からベネツィアまでレンタル・オートバイのパックツアーを乗り継ぎ、17年かけて走ってきた記録である。


by 山田 英司