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3-47 王子ナスル       8/27


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本日は帰国の日である。9時、朝食。ホテルの食堂が開くのが遅いため、宿泊客の朝食時間が集中してしまった。おそらくドイツのトレーラーバスの客であろう、欧米人が一度にやって来た。うかうかしていると卵料理などはなくなってしまう。このホテルで問題なのは、食堂が広い割には席が少ないことであった。少ない席をめぐって、欧米人と中国人と、日本人とで席取り合戦となる。道は譲りあっても、朝飯の席は譲らない。腹の減ったイエスと孔子とブッダは教えを棚上げし、足りない席の取り合いをしているわけである。

ここではマホメットは席取り合戦に加わる必要はない。彼らの席は十分にある。この町は彼らのホームグラウンドである。エイティガール寺院は中国で最大のイスラム教寺院である。カシュガルは中国のイスラム教の拠点である。イランの大統領が来た時ここを訪れたそうだ。それほど重要な寺院である。午前中の観光はこの寺院から始まった。

9世紀に中央アジアには、カザフスタンやタリム盆地を支配するカラハン朝とイランやアフガニスタン、ウズベクスタン、トルクメニスタンを支配するサーマーン朝という2つの王朝が存在していた。カラハン朝はマニ教の他に仏教やキリスト教を受容し、サーマーン朝はイスラム教を国教としていた。当初、この2国は平和に共存していた。しかし、9世紀の終わりごろサーマーン朝がカラハン朝に聖戦と称し戦争を仕掛けてきた。当時カザフスタンのタラスに副ハンのオグルチャックがいたが、戦いに敗れカシュガルに移ってきた。

タラスを陥落させたサーマーン朝であるが、その後内紛が発生する。内紛に敗北したサーマーン朝の王子ナスルはカシュガルに逃れてきて、オグルチャックに保護を求めた。オグルチャックはこの王子を利用しようと亡命を歓迎した。そして王子を厚遇して手なずけようとカシュガルの近くの行政長官に任命する。ところがこのナスル王子の方が一枚も二枚も上手であった。

王子はオグルチャックの好む絹の衣服や蔗糖(砂糖)をムスリム商人から仕入れ、せっせと貢ぎ物として送った。こうして逆にオグルチャックを信用させた王子は、ある日思い切って申し出をした。「自分の神(アラー)をお祈りするため」モスクを立てたい、そのために「牛皮の大きさ程度の土地が欲しい。」と。オグルチャックは敵の宗教であるイスラム教を禁止していたが、王子を手なずけるつもりでこれを認めてしまった。

王子は自分の任地に帰ると早速牛を一頭殺した。そして皮を剥ぎ、この皮を細い紐に切り、この紐で広い土地を囲い込んだ。そしてここに大きなモスクを建ててしまったのである。これが新疆に造られた最初のモスク、エイティガール寺院であった。

これだけであれば、一休さんのとんち話で終わっていたであろう。この先の王子ナスルの動きは、今に至るこの地方の歴史に影響してくるのである。オグルチャックの甥にサトゥクという少年がいた。彼はカラハン朝の初代大ハンの孫であり、第2代ハンの次子というサラブレッドであった。彼は時々狩りで王子の治める地区に遊びに行き、そこでイスラム商人がもたらしたものに接するようになった。

やがて彼はナスル王子と知り合いになり、次第に彼の影響を受けるようになる。まだ12歳である。ついに王子の働きかけでイスラム教に帰依してしまった。サトゥクはイスラム教入信を秘密にしたままナスル王子からコーランやイスラム教の知識を学ぶ。そして、汗族の若者の間に密かに信者を増やしていったのである。

25歳の時、彼の周りには騎兵300騎、さらにフェルガナ(キルギス)の支援を得て1000騎が従うようになった。そして兵3000騎にまで達すると彼はカシュガルを攻め、イスラムの名でこれを征服してしまった。そして仏教を信奉する叔父のオグルチャックを追放し、副ハンの位を奪い新疆の歴史の中で最初のムスリム王となったのである。

その後この地域では、イスラム勢力が軍事力で支配地域を広げるのに伴い、仏教やマニ教からイスラム教への強制的な改宗が行われるのである。ここカシュガルは、新疆地区におけるイスラム教布教の橋頭保であった場所である。




by chukocb400sb | 2020-02-07 07:34 | 3 ウルムチからカシュガル | Comments(0)

この旅行記は、シルクロードを西安からベネツィアまでレンタル・オートバイのパックツアーを乗り継ぎ、17年かけて走ってきた記録である。


by 山田 英司