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6-29 仏教から神道へ     9/17

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同じような話は古今東西どこにでもあるようだ。学生時代のOB会で恩師の墓参りに行った。恩師の実家は長野県松本市のやや北にある農家であった。今は実家に住む者はなく更地になっているが敷地内に先祖代々の墓がある。恩師の実家は神道であった。お亡くなりになって5年目だったので親族を通じて神主さんにお願いし5年祭を行ってもらった。

気さくな神主さんで松本から車でやってきて自分で祭式を設営してくれていた。何で恩師の実家が神道か不思議だったので、この地域では辺では神道の家が多いのですかと神主さんに聞いてみた。「昔はみんな仏教だったんだけどね、明治維新の時に変っちゃたんだよ。松本藩は譜代大名だろ、新政府にいい顔するためにみんな神道に変えちゃったんだよ。」

こういうことらしい。1867年1月鳥羽伏見の戦いで勝った新政府軍は江戸に向けて中山道を東に向かっていた。新政府に従わない藩を討伐するためである。松本藩は譜代大名だったので幕府に忠誠を尽くすか新政府に従うか大揺れになり藩論は真っ二つになったが決まらない。討伐軍は飛騨山脈の向こうまで迫ってきている。2月29日朝4時、藩内の17歳以上のすべての士族が城に集められ佐幕か帰順か決定するための会議が開かれた。議論は紛糾し夜中の11時まで続いたが結論が得られなかった。

しかし、藩主はすでに態度を決めており、事前に家老を使って内々に帰順の意を伝えていたのである。そして会議の翌日、藩主自ら討伐軍の岩倉具視のもとに赴き勤王の誓約をしている。何のことはない、全士族を集めたのはガス抜きのための会議だったのである。しかし、新政府軍にしてみたらこうした煮え切らない松本藩の対応はそのまま許容できるものではなかった。態度の決定が遅いとして討伐軍への莫大な賦役が課せられたのである。

このような背景事情で翌々年新政府から神道国教化の詔勅が出ると、藩主自ら神道に改め藩内士族に対しても神道に改めるよう説いている。こうして松本藩では一気に廃寺が進み一般庶民の神道への改宗が行われた。この時藩内180寺院のうち140の寺院が廃寺になったという。今でも松本市の人口当たりの寺の数は長野市のそれと比べると半分程度である。

これは藩主が一族と士族階級の地位保全のために自分の菩提寺を打ち捨てて改宗した例である。一番とばっちりを受けたのは僧職である。ある日突然一方的に整理解雇されたわけである。イランのサファビー朝でもシーア派が国教となった時スンニ派の僧職は兆散して他国に逃れることとなったらしい。

一方庶民はどうだったのだろうか。アリさんはこう言い切った。「イラン人の8割にとって宗教は形だけ。2割はある程度守っている。真面目なのは一握りだけ。」「我々にしてれ見れば、宗派の違いは単なる生活習慣の違いだけだよ。」

松本の神主さんに聞いてみた。仏教のお墓と神道のお墓と違いはあるのですか。「たいして違わないね。仏教は仏様になると戒名が付くが、神道では諡(おくりな)という。」「あと墓石の頭が少し尖がっている。」言われてみると墓石の頭が扁平な四角錐となってわずかに尖がっている。だけどそれだけですか。「それだけだよ。」








by chukocb400sb | 2022-04-22 06:29 | 6 マシュハドからタブリーズ | Comments(0)

この旅行記は、シルクロードを西安からベネツィアまでレンタル・オートバイのパックツアーを乗り継ぎ、17年かけて走ってきた記録である。


by 山田 英司