6-34 「世界」の発見 9/19
2022年 05月 27日
イランの道路はよく整備されているが周りの風景に変化がない。おまけにバイクは快調でクラッチが少々固いことを除けばトラブルがない。したがって走行距離は長くてもほぼ時間通りに目的地に着くのでバイクのトラブルにかかわる話題が全くない。粛々と乾燥した空気の中を走るだけである。
この日はテヘランからザンジャーンまでの走行であるが、途中カズビーンという町を通る。我々の行くシルクロードはこの町で南に折れしばらく行ったところで西に向かうが、この町で北に向かい山に入るとエルブルズ山脈の奥に、あのアサシン教団のアラムート城砦跡がある。ここに至る道は衛星写真で見るととんでもない悪路のようである。
周囲に集落らしいものはなく、おそらく泊まるところもないであろう。1泊2日のキャンプでないと往復できない場所のようである。旅行会社に行きたいと言ったが、黙殺された場所である。おそらく現地に行っても崩れた城壁くらいしか見られないし他の誰も興味のない場所である。というわけで、ここを右に曲がればその奥に伝説の城砦があるのにと思いつつこの町さっさと素通りしてしまった。
本日の目的地サンジャーンの手前にソルタニエという町がある。ここにはソルタニエ・ドームという巨大な廟がある。ソルタニエとはトルコ語でスルタンの意味である。そのままスルタンの都という地名であり、この都を造ったスルタンがこの廟に葬られている。そしてこのスルタンはモンゴル人である。
13世紀ユーラシア大陸全体に領土を広げたモンゴル帝国は、中央アジアからヨーロッパにかけて三つの分権国家により統治される。その一つであるイルハン国の首都がここソルタニエであった。この地は緩やかな起伏のある標高1800mの台地で狩場であった。イルハン国のスルタン第7代ガザンがここに都の建設をはじめ、14世紀に第8代オルジェイトの代でこの街が完成した。
この街は2重の城壁に囲まれ、内側の城壁は高さ13mで四方に16の塔があったと記録に残っている。地上からだとわからないが上空から見ると城壁と塔の跡が敷地に残っている。今、建造物で残っているのはこのドームだけである。高さが48mあり、レンガ造りのドームとしては世界で最も高い建物である。オルジェイトはこのドームの地下に葬られたとされているが、石室はいくつか見つかったものの遺骨は見つかっていない。
イルハン国は第7代カザンがイスラムに改宗した。父親は仏教徒だったが統治するには現地の宗教に改宗したほうがいいという理由である。当初オルジェイトはシーア派だったが、スルタンの政策にスンニ派が反対したのでそちらに鞍替えしたということである。その際、このドームの壁のコーランの文字を塗りつぶし上にもう一枚別の壁を塗ったということである。要は、権力者にとって宗教は支配の道具であった。
ドームに入ると中は巨大な空間となっている。見上げると有名なモザイクの天井があるはずだが、修理中で内部はいっぱいに足場が組まれており何も見えない。写真だけ後で見るとまるで定修中のプラントである。厚さ数メートルもあるレンガの壁の内部にらせん階段がありこれを上がるとテラスに出られる。テラスまでは相当な高さで息が切れてしまった。
テラスに登ると他に高い建物がないだけに眺望が良い。普通の権力者はこのような高い建築物を作りその上から領土を眺めて満足しそこで終わってしまうものであるが、この時代のハーンの思考水準はモンゴル帝国を世界帝国に押し上げるだけのものがあった。
建造物で残っているのはこの建物だけであるが、当時のモンゴル帝国の残したものは新しい世界観であった。第7代カザンの時に着手し、オルジェイトの代で完成した「集史」という歴史書がある。この歴史書はモンゴル民族の歴史から始まり、ヨーロッパ、中国、ユダヤ、イスラム・アラブ、トルコ、インド各地の歴史がまとめられている。
それまで世界各国の王朝で歴史書が編纂されたが基本的には自国の歴史書である。あの中国でさえ、周辺地域の情報を掲載しているがあくまでもその時点での情報である。この「集史」はモンゴル史が中心であるが各地域の民族と歴史をも並列に扱っている。これは歴史上初めての「世界史」と言われている。
同様に「集史」からおよそ半世紀後に作成され、15世紀に日本にもたらされた「混一彊理歴代国都之図」という地図がある。この地図はモンゴル帝国の地理概念を表したものであるが、ユーラシア大陸とアフリカ大陸が海に囲まれている。ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を発見するよりも1世紀も早くモンゴル人は大陸が海に囲まれていることを把握していたのである。
何もモンゴル人が喜望峰まで行ったわけではなかろう。それは当時最先端の水準にあったイスラムの知識と、マルコポーロに代表されるような旅行者や商人からの膨大な情報をモンゴル帝国が取り込んでいたことを示している。この「集史」と「混一彊理歴代国都之図」はモンゴル帝国が空間的にも時間的にも地球的規模で「世界」全体の情報を把握しようとしていたことを示している。「世界」はモンゴル帝国の時代にすでに発見されていた。このドームの主はそのような精神を持った人物であった。
by chukocb400sb
| 2022-05-27 06:34
| 6 マシュハドからタブリーズ
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