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6-42 ヘンペルのカラス    9/20

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達観した生き方もある。「巡礼男と老婆」という話である。ある時巡礼の途中の男が道に迷いってしまった。荒野の中で天幕を見つけたのでそこに行くと、老婆が一人で住んでいた。食べ物と水を所望すると、老婆は野で捕まえたけがわらしい動物の肉と濁った水を出してきた。男は空腹だったので仕方なくそれを食べた。そしてどうしてこんなひどい孤独な生活をしているのか老婆に尋ねた。

老婆は、お前の国は生活は楽かもしれないが、横暴なスルタンがいて皆奴隷と同じではないか、罪を犯すと財産は取り上げられ、真面目に働いても税金で巻き上げられ、一瞬の安息もないではないか。それに比べたら私の生活の方がずっと体にいい。イスラムの教えがこの世に伝えられてから一番の恵みとは体が達者で煩いがないことだよ、と諭した。男は何も言えなかった。アラビアンナイトの中で、珍しく体制批判が展開される物語である。

だからというわけではないが、我々はテヘランに帰ってくるとアリさんが自分のお母さんの自宅に招待してくれた。アリさんのお母さんは山の手の高層建築のアパートの一室に一人で住んでいる。アパートの広さは103㎡もある。アリさんは彼女と市内に二人だけで暮らしているが、お母さんの家には足しげく帰っているそうだ。アリさんのお母さんは黙ってニコニコしながら我々にお茶を入れてくれた。アリさんのお母さんは英語が話せないので、アリさんが代わりに話をする。息子に早く結婚してほしいそうだ。

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何でそんな話になったか分からないが、この家には米が備蓄されているという。何のことかわからなかったが、一室を開けて見せてもらって驚いた。大量のコメ袋が積み上げられている。これは枕ではない、全て米袋である。お婆さんが一人で食べる量ではない。アリさん曰く、これがイランの家庭では普通だという。何があるかわからない。この国の不安定な政治からはいつ食料の供給が細るか分からないということらしい。うーむと考えさせられた。庶民は体制に不信を持っても達観などすることなく、まず生き抜くことを考えるものである。

いろいろ考えさせられながらアリさんのお母さんの自宅を辞去した。外に出ると夕暮れであった。道端に黒い羽根に首回りが白い鳥がいた。鳩かと思ったが鳩よりもかなり大きく、よく見るとくちばしの形はカラスである。帰ってから調べてみるとカラスの中には白いものもいることが分かった。ニシコクマルガラスという種で、ヨーロッパから中近東、中央アジアにかけて分布しており首の周りが白いことが特徴である。この写真カラスがまさにそうであった。

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「ヘンペルのカラス」というドイツの哲学者カール・ヘンペルが提唱した帰納法に対する問題提起がある。「全てのカラスは黒い」という命題がある。自分もそうだし、多くの人もそう思っていると思う。日頃見かけるカラスは全て黒いからである。このように広く常識から命題を導き出す方法を帰納法という。帰納法で導き出された命題は納得感があるし人々の支持を受けやすい。しかしこの命題は本当に証明されているわけではない。これを証明するためには全てのカラスの色を調べなければいけない。それは不可能である。

逆に「黒くないものにカラスがいない」ことを証明すれば先の命題を証明したことになる。これも不可能である。例外が見当たらず皆が納得しているのであれば何も波風たててそんなことをしなくてもいいからである。ここで起きる弊害は、白いカラスがいてもそれはカラスでないと思い込んでしまうことである。しかし、「黒くないものにカラスがいる」ことがわかると最初の命題は全てひっくり返ってしまうのである。事実、白いカラスがいたわけである。ただ私が知らなかっただけである。多くの日本人も知らないと思う。

これは常識だけ、あるいは例外が見当たらないからと言って導き出された結論には穴があるという問題提起である。イランは宗教が支配する国である。そう思っていた。しかし現地で会うイラン人の日常生活は決してそうではない。イランの8割の国民は宗教については生活習慣だと思っている。2割は宗教を真面目に信仰している。日本に伝えられるのはほとんど2割の部分である。だからイランの国民はみな熱心なイスラム教徒であると思ってしまう。

しかし現地に来るとどうもそうではないことが分かってくる。これはイランに限ったことではない、我々に伝えられる情報は世界のほんの一部である。事実だと言われていたことの向こうに知らないことがたくさんあるということを、常に心の中に持っていなくてはいけないということを、イランに来て白いカラスから教えてもらうことができた。

カアー、カアー。(ソンナコト、今頃分カッタノカ。)カアー、カアー。


第6部 終








by chukocb400sb | 2022-07-22 06:42 | 6 マシュハドからタブリーズ | Comments(0)

この旅行記は、シルクロードを西安からベネツィアまでレンタル・オートバイのパックツアーを乗り継ぎ、17年かけて走ってきた記録である。


by 山田 英司