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7-06 イサク・パシャ宮殿   9/20

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30分ほど待ってやっと旅行会社のバスが来た。恰幅のいいおじさんが降りてきてケマルだと自己紹介をした。彼がガイド兼リードライダーである。トルコは中国や中央アジアと違ってバイクの観光ツアーが商売として成り立っている国である。旅行会社の社員がライダーを仕事としているのである。

早々にバスに乗って移動を開始するが、トルコ側にも延々と通関待ちのトラックの列が続いていた。ケマルの説明ではだいたいいつも15kmくらい列が続いているそうである。3~4日は待つことが普通であるそうだ。

ケマルが何やら添乗員に長々と説明している。話を聞くと、今日の宿泊地が変わったということである。予定では国境から一番近いドゥバヤジットという町で泊まる予定が、80km先のアールという町に変わったということである。イランとの国境付近はクルド人が多く住んでいる地域である。トルコ内で独立運動を強めているクルド人と政府の間で緊張関係が高まり治安が不安定になっているという理由らしい。

ドゥバヤジットは国境から40km入ったところにあるトルコ側の最初の大きな町である。ここは昔からイランとの陸上交易で栄えた町で人口は7万人ほどである。現在でもイランからの輸入品の受け入れ地となっている。第1次大戦までここがこの地方の統治の場所であった。

この町にはイサク・パシャ宮殿という有名な宮殿がある。町から東に向かって5kmほど走った山の中に崖の上から町を見下ろすように建てられている。この宮殿は17世紀にこの地方を治めたクルド人領主イサク・パシャによって夏の離宮として建てられたものである。建設は彼の死後も子孫によって続けられ完成まで99年かかったと言われている。

敷地面積7600㎡と他の地域の巨大モスクと比べると広くはないが、部屋の数は366もあり、モスク、リビングルームや食堂、ハレム、法廷、イサクパシャの墓所、牢獄、食料貯蔵庫など地下室もある。西側のハーレムと言われた区画の部屋からははるかにドゥバヤジットの町が見下ろせ、北の方にはアララト山が見える。
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夏はいいが冬はさぞ寒かろうと思っていたが驚いたことに各部屋にかまどがあり、ここでお湯を沸かして壁の中に通るパイプを通って建物全体を暖房するという設備があったという。これは世界初のセントラルヒーティングシステムだという説明であった。

99年もかかって建設されたことで各地の建築様式が取り入れられている。セルジューク、オスマン、グルジア、アルメニアの様式や、ヨーロッパのバロック様式の影響も見られトルコには珍しいヨーロッパ型の城郭設計が取り入れられ貴重な文化遺産であるらしい。道路の面した東側の入口には金メッキが施された扉があったが19世紀の終わりごろ露土戦争でここを占領したロシア軍に持ち去られてしまったということである。

この宮殿は現在修復中で、屋根が崩落した部分は鉄骨で組まれたガラスの屋根がかけられている。それはいいとしても壁の補修は極めて雑で、元の遺構か新しく修復された部分か区別がつかないような方法で行われている。残っている壁の装飾などは極めて価値の高いものであるだけに残念な話である。
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当時は壮麗な宮殿だったらしい。ある時ペルシアの大使がこの宮殿に寄ってから首都イスタンブールのトプカピ宮殿を訪問した。そこでオスマン帝国のスルタンに、イサクパシャ宮殿はトプカピ宮殿よりも壮大であると吹聴したらしい。トプカピ宮殿に比べればその規模ははるかに小さいと思うが、大使の話を聞いて怒ったスルタンはイサク・パシャを知事から解任し地方に左遷してしまったそうである。そして彼はそこで亡くなったということである。

別の話では、オスマン帝国が財政で苦しんでいる時イサク・パシャはイスタンブールに送金する予定の税金の一部を宮殿建設に使い込み、それがばれたというものもある。海外の筆頭株主から送り込まれてきたどこかの自動車メーカーの社長の話と似ていないだろうか。







by chukocb400sb | 2022-09-09 07:06 | 6 マシュハドからタブリーズ | Comments(0)

この旅行記は、シルクロードを西安からベネツィアまでレンタル・オートバイのパックツアーを乗り継ぎ、17年かけて走ってきた記録である。


by 山田 英司